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2005年10月04日
調布市立布田小学校 時任 勝
子どものリアル・図工のリアル・授業のリアル

子どもは大人の思った通りには動かないし、そう単純じゃない。大人を知っているから従うこともするし、へつらいもする。したたかでおまけに怠け者。誰もが持つ弱さや強さを露骨に見せてくれる。そんなところに子どものリアリティを感じている。気まぐれで、奔放さを併せ持つ子ども。彼らのしたたかな身体が必要とする図工の輝きや楽しさはどこにあるのか。たぶん、ここに飾られることではないだろうし、図工の先生の思惑なんて問題外だ。
図工の時間に子どもが真実みを帯びはじめるのは彼らの背景にある様々な「もの」や「こと」が意外なところから光を放ちはじめるとき。おおざっぱに言ってしまえば、はじけだすときだ。しかし、「はじけだす」と言う概念は先生の生きてきた背景や美術の嗜好性、年齢や気力、図工的疲労レベルによってそれぞれ異なるから簡単には使えない、なかなかムズカシイことなのだ。「はじけだす」とき。たぶん、そこには先生も友だちも、おとうさんもおかあさんもいないのだ。いろんな厄介なことがばらばらになって、心と身体を縛りつけるものから解き放たれているのだと思う。そんな場所や空間が図工の中でいつでも用意されているのかと言うと、そうでもない。だって、ジュギョウなのだから。ジュギョウだからズコーの先生がカイザイしているに決まっている。だから子どものリアリティにいくつものネジレが生じていくこともまた確かなことだ。こう考えていくと、子どもと図工のリアルは先生によってシハイされていて、新たな先生のリアルストーリーが描けていく。
支配かコントロールか触媒か共存か、授業のフレームはそう簡単にはつくれないし壊せない。でも、授業がはじけだすきっかけは図工を前にした子どもと先生との関係の中にあるような気がする。…そこにこそ大きなリアリティがソンザイするように思えてならな
投稿者 zukodaisuki : 2005年10月04日 05:24