2008年12月29日

西戸山小学校 加藤 啓

絵という航跡あるいは踊るギニョール

「世界一周大航海」、子どもは航海地図を描く。そして、船が辿る物語の一場面を描く。
 海に描かれる航跡のイメージが、画面をさまよい、あるいは走るように辿る筆跡のイメージに重なる。それは
私のイルージョン。これから語ることはそんなイルージョンに似たモノローグとして捉えてください。

〈作品とは何?〉 私は、子どもが自分に出会い、自分の「生の物語」を語る装置として「作品」をとらえたい。
 記憶の場面の中にいる自分を語る、木に投影される自分を綴る。鏡の中に映る自分らしきものを紡ぐ。遊びの
ようなパフォーマンスの中から生まれるイメージの発見、出会いの場として、出来事の痕跡が残る場として「作
品」をとらえる。

〈生の物語〉 出来事、それは「いま」と「ここ」だが、それはかって言葉や像になれずに抑えこまれ、隠されたものたちがあらわれる「いま、ここ」である。
 絵を描くこと、それは自分(一つの生の物語)を書き替えていくこと。語られずバラバラになって、底にわだ
かまるものたちを、もう一つ別の物語に。

〈線・形・色の肉体〉
線:流れる肉体、区切る肉体、囲む肉体、切断する肉体。
形:わだかまる肉体、ひろがる肉体、はみだす肉体。
色:触覚的な色、色の肉体性。色は抽象的に存在しない。
  血、嘔吐、食べ物、地面、夜、夕空、それら事象に受肉する色。色は声のようものではないだろうか。

〈筆跡の肉体〉 かぼそいあるいは繊細な筆跡。乱暴あるいは力強い筆跡。世界の肌を触る、まさぐる手。手触
りとしての筆跡。その色合い、材質感、粘度。筆跡はどのように在るのだろう。
 筆跡は造形的要素とされる色、形、線と言う還元的かつ構成的概念に収納出来ない。筆跡は線、色、形の肉体
のアマルガムである。
 筆跡にあらわれる流れの感覚と身体感覚との結びつきの度合いが強度となる。

〈見ることの肉体生〉 夕暮れ、工事現場金網フェンス下のプランターに植えられているコスモスの花がゆれて
いる。美しいと感じられることがうれしい(コスモスのゆれる線を発見する。)。スズメがアスファルトの路面
をコチョコチョと歩くのを見て愛おしいと思えることがうれしい(スズメの歩行線を発見する。)
 世界を見る眼差しの中にもまた、世界の光景を辿りゆく眼という船の航跡がある。そこには眼差す肉体の内な
るエネルギーがある。それが光景の中に自分の航跡を見出していく。

〈見て描く;顔と木〉自分の顔を描く。木を描く。どこにも線はない。どこにも形はない。光、色のスペクトル
の変化があり、存在としての肉体がある。それを絵にするとき、眼差しがどんな航跡を辿り、筆跡が、どんな色
の肉体を通して、画面にその航跡をしるすのか。

 描かれた形体は、物のイメージを語りつつ同時に他のことを語る形体。形体のパントマイムは子どものつぶや
き、肉体の身振りを語る。 子どもの言葉にならない「つぶやき」が線、形、色の筆跡となる。そうした子ども
の分身が踊る人形シアター。
 筆を持つ手は踊るギニョール(手操り人形)。 イメージ(図像)は歌詞であり、筆跡の肉体性がメロディー
を奏で、歌う。 「描き」のギニョール、踊れ、歌え!

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投稿者 zukodaisuki : 14:01