子どもがイメージする王様は、偉い人、豊かな生活を送っている・・・・等など。
思いをふくらませ楽しみながらつくる様子が伺えました。


多摩市立南鶴牧小学校 横道 広樹
]]>スズムシは現在、月1回、ファロのみなさんといっしょに図工をたのしんでいます。
平和な生活を送っている子どもたちばかりではない。家庭や学校での様々な出来事に心を痛め、そして深層にそれらの痛みを堆く積み上げている。口にもだせない、そんな痛みは絵を通して、露になる。それを昇華と呼ぼう。そんな痛みは絵を描くことでやわらげられる。そして、また、生きようと思う。
ファロは、精神障害者小規模通所授産施設です。CCAAに見学に見えて、それから、おつき合いが始まりました。どうですか。図工をやりませんかと。それから、月1回のペースで、彼等はやってきます。純粋で心の綺麗な彼等の造形は、ぼくをハッとさせてくれます。ワーズ・ワースにならえば、ファロの人たちは大人の父親です。

感受性において、既に子どもは大人より優れている。だから、子どもは大人の父親のような存在であり、忘却の彼方に喪失してしまった感受の力を取り戻したいと言うのです。このような子どもの存在はいかにもロマンチックではあります。しかし、そのような優れた感受力によって、世界を認識したとき、全ての子どもたちが創造者としてあるわけではありません。停滞したり、NONといって拒否したりする破壊者という存在でもあります。そんな子どもたちに正対し、内実を汲み取る努力こそ、私たち大人(美術教師)に科せられた愛であるべきでしょう。教師の真の権威は愛であると言ったのは、ホーマー・レインでした。それは、鞭を使って恐怖のうちに権威を保っていたアメリカの教師を批判して述べたことですが、日本の場合でも、教師の権威は依然として旧態のままであるとさえ思っています。
愛にまつわるささやかな出来事をここで述べてみましょう。愛の欠乏について。象を描いたのは2年生のK君。K君はこのごろ、ぐずぐずして母を困らせています。その日も、母はようようの思いで学校まで手をつないで連れてきました。玄関でひきがえるのように仰向けに寝転がって、教室へ誘う母を困らせます。K君に「ひきがえるみたいだな」と呼びかけました。くすぐり作戦を取ると、クスクスと笑ったその直後にメソメソ泣き出します。あわてて、僕も寝そべって、耳元で「図工室に来ない。何か作ってみない?」と囁きます。表情の変化を見届けましたから、図工室に連れて行きました。準備室に誘うと母の存在を確認しながら、椅子に座りました。母に退却するよう信号を送りました。それから、メモ用紙のような粗末な紙を与えると、小さなものを幾つも描き始めました。その途中で描いたのが象です。
まどみちおの詩にぞうさんがあります。
ぞうさん ぞうさん おはながながいのね
そうよ かあさんも ながいのよ
そうさん ぞうさん だあれがすきなの
あのね かあさんが すきなのよ

K君もきっと母が大好きで独占したいのです。しかし、家庭の複雑な事情がそれを許しません。ですから、その感情が象の化身となって現れたのです。こんな事実がなければ、見逃す普通の絵ですが、象は鼻から冷や水をはき出しています。それは、きっとK君が浴びてもいる冷たい水(母の行い)でもあるはずです。
愛と平和は特段のイデオロギーでも何でもありません。普段の暮らしのことです。ベンヤミンはその著作の中で子どものことを語っています。勿論、ナチズムの悲惨が根底にあってのことですが、母子の関係について次のように語っているのは象徴的です。
母が子どもにしてやれること。それは髪を梳ってあげること。
抱きしめてあげること。
子どもが母にしてあげること。それはダダをこねること。
ユダヤ人であったベンヤミンはナチに追われ、アルプスの山中で自らの命を絶ってしまいました。平和と隔絶した世界に絶望してのことです。ベンヤミンとK君は生というところで同一の領域にいるように思うのは大げさでしょうか。 2008年12月1日 記:鈴石
墨田区の曳舟小学校に新任で着任した。下町のごちゃごちゃした地域で、子どもたちはたいへん元気で素朴だった。新卒のなんもわからんぼくは、6年間そこで過ごした。「教育」も「子ども」もよくわからなかった。が、図工部の先輩方がよかったな。見よう見まねで授業をおこなった。
写真1は、5年生のちっちゃな女の子の絵。和紙に絵の具を塗って、水で洗って、割りばしペンで、墨で描いたもの。ほんとは「サーカス」がテーマだったけど、この子の作品はぜんぜん関係ないものを描いてる。というより、この子は全然活力がなく、静かににこにこ笑っている子だった。濡れた紙に割りばしペンの先っぽが触れるたびに、すうっと墨が染みていく。左の木の当たりは点々がいっぱいある。紙に吸い込まれていく感じに促されて、イメージが誘発されたにみたいだ。右側にはネコちゃんも登場している。なんともたどたどしい線描で、なんともさびしい感じがするのだが、小さなひ弱な手がたどった軌跡が、そこにその子の世界をつくりだしていると感じた。この子の絵は、ぐさりとぼくの胸に突き刺さった。
写真1

2、「北ノ台小学校時代」
写真2

型紙つくって、ローラーでころころして「ひみつのめいろ」(写真2)ってことで、やりはじめたんだけど、1年生のS君は宇宙人だから、覚えたての「ひらがな」を使いたくて、使いたくてしかたなかったんだな。「あのね、ずこうだからね、絵をかくといいんだけどね・・・」と言いたかったけど、言えなかったな。あんまり楽しそうだったから・・・。子どもには「絵」も「字」も関係ないんだってことをS君に教えてもらった。
「図工で遊んでばかりいてどうなるの」という声が、真面目な先生たちから聞こえてきたが、ほんと、どうなるんだろと思っていたら、6年生のYさんは、上野動物園の全校写生会で、写真3の動物の絵を描いた。
写真3

「こりゃ、すごい」。たんなる描写ではなくて、精神性まで感じさせる作品となっている、とぼくは感じた。高学年になると普通、やる気なくなっちゃうんだけど、「よく遊んでたからこんなのができたんだ」とぼくはその時直感した。北ノ台では、1年から6年まで図工をもっていた。
3、「上板橋第二小学校時代」
写真4

写真4は、「鳥の巣たまご」という題材。3年生。
「木の上に鳥の巣がありました。たまごもたくさんありました。そこに、ねこちゃんが・・・」という話の続きを描いたんだけど、ぼくは、いたずらっこが多かったので、たまごやヒナが食べられちゃったらどうしようかと思ったんだけど・・・そんな残酷な思い過ごしは、ぼくだけで、全員、実にかわいらしい作品となった。ほんと3年生は、かわいいなあ。子どもは「やさしい生きもの」だと実感した。だから、大人は、子どものやさしさにつけこんではいけない。3年生は、精神的な分岐点。3年生までの経験がその後に反映する。世のかあさん、父ちゃん、先生は、一生懸命かわいがりましょう。
それから、上二時代は、都図研の理事長を2年間やった。このぼくがです。まだ、悠長な時代であったと言えましょう。でも、「予想」が足りなかったと今は思います。社会性が足りなかったのですね。いまでもそうですが、図工の先生は、アナーキーな側面を深く抱え込んでいます。それが、いいところでもあり、且つ、弱いところでもあります。
4、「千寿小学校時代」
写真5

写真5は、墨で描いたふくろう。段ボールの中に、はく製を入れて起きて、小さな窓を空け、ふくろうが入っているとは知らせずに、のぞきこませる。子どもは「ぎゃ~」。それから、みたり、みなかったりしながら、自分のイメージで描いていく。
こころのなかに、少しでも食い込むと、こんないい感じの表現になる。Nちゃんは、普段の教室の様子とはまったく異なる堂々としたふくろうを描きあげた。その気になるとすごいものだ。
・・・と、このように作品についてひとつひとつ想起していると、だらだらと永遠に文章を書き連ねることになってしまう。
最近は、ぼくでも、時々、エラソーなことを言うこともあるけど、ホントは、子どもの前に立つとそんなことは、ぶっ飛んでしまう。どんなことが、次の瞬間に起きるのかは、永遠に謎なのだ。子どもの前に立つとは、そんな瞬間の連続なのである。また、その場では、無限の出来事が起きていて、そのなかのほんの一部分が、みえてくるだけなのだ。
「図工だいすき子ども美術展~冬展~」という企画に参加して、今までを振り返る機会をもったのであるが、みえてきたのは、「なんだかよくわからないままに28年が過ぎてしまった」ということだった。
「世界一周大航海」、子どもは航海地図を描く。そして、船が辿る物語の一場面を描く。
海に描かれる航跡のイメージが、画面をさまよい、あるいは走るように辿る筆跡のイメージに重なる。それは
私のイルージョン。これから語ることはそんなイルージョンに似たモノローグとして捉えてください。
〈作品とは何?〉 私は、子どもが自分に出会い、自分の「生の物語」を語る装置として「作品」をとらえたい。
記憶の場面の中にいる自分を語る、木に投影される自分を綴る。鏡の中に映る自分らしきものを紡ぐ。遊びの
ようなパフォーマンスの中から生まれるイメージの発見、出会いの場として、出来事の痕跡が残る場として「作
品」をとらえる。
〈生の物語〉 出来事、それは「いま」と「ここ」だが、それはかって言葉や像になれずに抑えこまれ、隠されたものたちがあらわれる「いま、ここ」である。
絵を描くこと、それは自分(一つの生の物語)を書き替えていくこと。語られずバラバラになって、底にわだ
かまるものたちを、もう一つ別の物語に。
〈線・形・色の肉体〉
線:流れる肉体、区切る肉体、囲む肉体、切断する肉体。
形:わだかまる肉体、ひろがる肉体、はみだす肉体。
色:触覚的な色、色の肉体性。色は抽象的に存在しない。
血、嘔吐、食べ物、地面、夜、夕空、それら事象に受肉する色。色は声のようものではないだろうか。
〈筆跡の肉体〉 かぼそいあるいは繊細な筆跡。乱暴あるいは力強い筆跡。世界の肌を触る、まさぐる手。手触
りとしての筆跡。その色合い、材質感、粘度。筆跡はどのように在るのだろう。
筆跡は造形的要素とされる色、形、線と言う還元的かつ構成的概念に収納出来ない。筆跡は線、色、形の肉体
のアマルガムである。
筆跡にあらわれる流れの感覚と身体感覚との結びつきの度合いが強度となる。
〈見ることの肉体生〉 夕暮れ、工事現場金網フェンス下のプランターに植えられているコスモスの花がゆれて
いる。美しいと感じられることがうれしい(コスモスのゆれる線を発見する。)。スズメがアスファルトの路面
をコチョコチョと歩くのを見て愛おしいと思えることがうれしい(スズメの歩行線を発見する。)
世界を見る眼差しの中にもまた、世界の光景を辿りゆく眼という船の航跡がある。そこには眼差す肉体の内な
るエネルギーがある。それが光景の中に自分の航跡を見出していく。
〈見て描く;顔と木〉自分の顔を描く。木を描く。どこにも線はない。どこにも形はない。光、色のスペクトル
の変化があり、存在としての肉体がある。それを絵にするとき、眼差しがどんな航跡を辿り、筆跡が、どんな色
の肉体を通して、画面にその航跡をしるすのか。
描かれた形体は、物のイメージを語りつつ同時に他のことを語る形体。形体のパントマイムは子どものつぶや
き、肉体の身振りを語る。 子どもの言葉にならない「つぶやき」が線、形、色の筆跡となる。そうした子ども
の分身が踊る人形シアター。
筆を持つ手は踊るギニョール(手操り人形)。 イメージ(図像)は歌詞であり、筆跡の肉体性がメロディー
を奏で、歌う。 「描き」のギニョール、踊れ、歌え!

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足立区立大谷田小学校 高橋 香苗
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